Bobosensei Blogspot
Monday, 21 January 2013
言語の影響 ~~ Languages influence on Performance
これまで私は、様々な場所に住み、また旅をし、数多くの言語に出会ってきました。そして、多くの言語を知れば知るほど「母国語が音楽演奏に大きな影響を与える」という事実は、私の中で確かなものになってきています。テンポ、アーティキュレーション、音の長さは全て頻繁に母国語の影響を受けているのです。
何年も前のことになりますが、私はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に入団したことでヨーロッパに移り住み、英語以外の言語に初めて出会いました。私は、その出会いに大変興味を持ち、その後、イタリア語、フランス語、日本語、ドイツ語、そして英語を学習し、それらの特徴を知ることで二つの事に気が付きました。まず、言語によってスピードが異なる事。そして、もう一つは、おそらく多くの人も気付いているとは思いますが、女性は男性よりも速く話すという事です!例えば、英語においては、男性が1分間に150語ほど話すのに対し、女性はだいたい175語を話します。この事実をもっと調べていくと興味深いかもしれませんし、さらに、何故なのだろうか?というところを調査するとまた面白いかもしれません。
しかし、ここでより重要な事は、母国語のスピードと、そのスピードが我々の音楽演奏に与える影響です。フランス語では、1分間におよそ350音節が話され、日本語は310、ドイツ語は250、英語は220ほどです。私は、イタリア語の数値を把握していないのですが、フランス語よりはかなり速いのは確かだと考えています。経験から推測して、おそらく380くらいの速さではないのでしょうか(特にイタリア人の女性!)。これらの言語の速度は、話すこと、演奏することにおいて、どのように音を聞き、どのように理解するかということに大きな影響を及ぼすのです。
子音もまた、言語によって大きく異なる部分で、母国語の子音もアーティキュレーションをどのように表現するかという点で演奏に大変大きな影響を及ぼしています。アーティキュレーションは、まさに音楽言語の子音なのです。世界の言語学者達は、世界中の言語の子音の数について、意見を一致させることが出来ません。なぜならば、どういうふうに区別するか、どこで線を引くかが分からないのです。例えば、子音の「T」一つでも、一つの言語と他の言語では大きな違いがあります。イタリア語のTは、舌が非常に前の方、ちょうど上の歯の先端くらいで発音され、一方、中国語は、口蓋の部分で発音されるため、舌が非常に高い位置になります。舌の位置は、同じTでも結果としてかなりの音の違いを生じさせます。(別のエッセイである「アーティキュレーション」もどうぞ読んでみてください。)
ごく最近、私はよく日本人の金管奏者たちと仕事をしていて、音楽演奏の言語に影響を与えているような興味深い事実を新たに発見し、そこに注目しています。それは、日本人の管楽器奏者は、一般的な傾向として、タンギングで演奏される音が全て短いという事実です。二分音符、十六分音符に関わらず、楽譜に印刷されたものが示している長さよりも短く演奏しているのです。先週のあるレッスン中に、テヌートがかかった四分音符のパッセージを、音と音の間に隙間(沈黙) がないように演奏するよう、私は生徒に何度も要求しました。しかし、そう言っても、音と音の間には隙間が残っていました。そこで、私は自分の名前を引き合いに出しました。「私の名前は、ボボです。「ボッボッ」ではありません。」生徒が、私の後に続いて言ってみたのですが、言葉の上であってもまだ隙間が残っていました。「もう一度言ってみてください。私の名前はボーボーです。」少し良くなり始め、そしてその後、ついにその問題は理解され、解決したのです。
日本語は、私が知っている中では最もスタッカートな(音が切れ切れの)言語だということが最近はっきりしてきました。話されている多くの部分で(特に音節が子音で始まる場合に) 、音節と音節の間に隙間があります。それが日本人の金管奏者が西洋音楽を演奏する際に時になまり(前回のコラムで述べたような)を伴う原因のひとつでもあります。私は、この問題が特別に深刻な問題だと言っている訳ではありません。ただ、この問題が指摘された時に、きちんと理解さえ出来れば簡単に修正できることなのです。
時に、なまりは魅力的なものではありますが、意味が伝わりにくいこともあります。何がより良い結果を生むのか・・。それは話し手やプレイヤーの決定次第なのです。
2007年11月7日東京にて
Thursday, 3 January 2013
一人の生徒に複数の教師 - Simultaneous Multiple Teachers
トミー・ジョンソンと私は長い間親友であり、いろんな物事に関して同じ考えを持つことはとても自然なことでした。私たち二人が同時期に教えていた生徒も多くいましたが、それは私たちにとって大変自然なことであり、お互いが同じような考えを持っていたので、問題が起こることなど全くありませんでした。ロサンジェルスで私たちが活動し、教えてきた25年間、私たちは何十人もの生徒に対して、お互いのレッスンを受けるように勧めたものでした。また同様に、ハーヴィー・フィリップスからも何度も電話があり、ロサンジェルスに訪れる生徒へのレッスン依頼を受けたことを覚えています。幸い、私たち金管の世界の大部分では、生徒が1人以上の先生と共に勉強していくことが受け入れられています。
しかしながら、いつもそんな状況でばかりではありませんでした。今日でさえ私たちは、時折、仲間の先生の警戒心や不安感のようなものに出くわすことがあります。ヨーロッパの大都市でテューバ奏者たちがコンサートをやる際などに、地方の生徒達がそのコンサートに行くのをその先生によって止められるというようなことが起こるのです。「自分の生徒にはその演奏会に行ってもらいたくない。」と、神経質な先生は言うのです。しかしながら、普通の人間なら「その演奏会には行ってはいけない!」と言われれば、ますます行って聞きたくなるもので、その生徒は落胆してしまうのです。また、時々、マスタークラスがキャンセルさせられるという事態になることもあります。それは特に、古いソビエト地区の東欧の国々で起こります。「学生にとって悪い影響があるかもしれない」という理由からです。幸いにも、このような考え方は現在ではまれであり、そういった事態は減ってきています。
もちろん、1人以上の教師に付いて勉強することに、何か特別なルールがあったわけではありませんが、私たちが考える常識のようなものがいくつかあります。
教師と生徒がレッスンの事に関して、常に誠実であることはとても大切なことです。もし、秘密にしなければならないようなことがあるのなら、何かそこに問題があることは明らかであり、そのレッスン自体に価値があるのかどうかということが疑問になってくるでしょう。
しかしながら、いつもそんな状況でばかりではありませんでした。今日でさえ私たちは、時折、仲間の先生の警戒心や不安感のようなものに出くわすことがあります。ヨーロッパの大都市でテューバ奏者たちがコンサートをやる際などに、地方の生徒達がそのコンサートに行くのをその先生によって止められるというようなことが起こるのです。「自分の生徒にはその演奏会に行ってもらいたくない。」と、神経質な先生は言うのです。しかしながら、普通の人間なら「その演奏会には行ってはいけない!」と言われれば、ますます行って聞きたくなるもので、その生徒は落胆してしまうのです。また、時々、マスタークラスがキャンセルさせられるという事態になることもあります。それは特に、古いソビエト地区の東欧の国々で起こります。「学生にとって悪い影響があるかもしれない」という理由からです。幸いにも、このような考え方は現在ではまれであり、そういった事態は減ってきています。
もちろん、1人以上の教師に付いて勉強することに、何か特別なルールがあったわけではありませんが、私たちが考える常識のようなものがいくつかあります。
教師と生徒がレッスンの事に関して、常に誠実であることはとても大切なことです。もし、秘密にしなければならないようなことがあるのなら、何かそこに問題があることは明らかであり、そのレッスン自体に価値があるのかどうかということが疑問になってくるでしょう。
Wednesday, 12 December 2012
選択肢 - Choices
先日の2007年日本管打楽器コンクールでは、テューバ部門の審査員の一人として参加することが出来、私は大変光栄に思っています。最初の2日間では、141人のコンクール出場者から次の週に行われる2次予選へと進む17人のプレイヤーを選出するというのが私の仕事でした。トーマス・スティーブンスのAria con Variazioniを141回聴きましたが、どの奏者を進ませるかという確かな判断を得るために、一人ひとりの演奏を覚えておくというその作業は、私にとって大変興味深いものでした。今、私の机の上に、141の感想が書かれた厚い紙の束が置かれています。141回もAria con Variazioniを聴けば、きっと退屈するはずだと思われるでしょう。確かに全てを聴くことは長時間に及びましたが、最後の最後までそれは興味深いものでした。
一番、関心を引き起こされた事実は、141人全てが異なった演奏だったということです。同じ音も存在しなければ、同じアーティキュレーションの人もいませんでした。しかし、スタイルやフレージングの事を述べるとすれば、141人ほとんどの人が著しく同じだったのです。ほとんどのプレイヤーが、楽譜に印刷されたまさにその曲すべての詳細を、ただ完璧に演奏しようとしていました。その中でも、個性的な演奏をする勇気と信念を持った奏者17人は、2次予選へと進んだのです。
私達はたいてい、暗黙の社会的ルールにのっとった振る舞いが要求されるような社会に生きています。そして、それは普通は良いことです。しかしながら、音楽やその他の芸術では、違いというものが私達を特別にし、興味深いものにし、私達の音楽を美しくし、そして独特なものにするのです。全ての人に気に入ってもらおうとすると、個性をなくしてしまい、その結果、退屈になってしまう危険が常に存在します。こういったことは大変頻繁に起こることです。コンクールやコンサート、試験やオーディションにおいて、最も満足しなければならない人というのは、自分自身なのです。音楽的、芸術的決定をするためには、普段、スムーズな良い演奏をするためにする練習とは別の練習を必要とします。良い芸術的な決定をするためには経験を必要とし、経験は、異なったことを試してみることによって得られるのです。
様々な音楽の可能性を学ぶための最も大切な練習は、聴くことなのかもしれません。私達が、音楽の中でどういったことが出来るのかという多くの例を聴けば聴くほど、私達は私達自身の個人的音楽性を開拓していく際に「試してみること」が可能となります。適切な解釈はたくさん存在し、試せば試すほど、個人的スタイルを見つけるための選択肢は広がっていくのです。
もちろん、アンサンブルの中においては、私達は快く個性を妥協し、それぞれの音楽形態が持つスタイルの中で演奏しなければなりません。がしかし、私達それぞれが個性を持っているという事実は、どんなシチュエーションにおいても、音楽を作っていくための質を高めることになるでしょう。
素晴らしい音楽家は皆、強い意見を持っています。新しいアイディアをどんどん試し、人とは違うということに勇気を持ってください。そういったことが私達の音楽をより良くさせるのです!
2007年11月18日 東京にて
Monday, 22 October 2012
「アンブシュア」は動詞だ!
アンブシュア(Embouchure):名詞〔音楽〕プレイヤーが金管や木管楽器のマウスピースに唇をあてる方法」
辞書にはこう記載されています!しかし、唇があっても振動を起こす息がなければ、唇は何の役にも立ちません。ただ、息が唇にどう触れ、どう通っていくかによって、無限の可能性が生まれます。唇の張りや息、それにその二つがどう一緒に働くかを考えるのは、ほとんど精神的な領域だと言えるかもしれません。これは思考から結果が起こるという問題だからです。分析をすることは人間にとって自然なことではありますが、アンブシュアについては、分析したとしても満足な結果は得られないでしょう。そして、アンブシュアを分析し過ぎることで、ブレスの問題をも引き起こすこという悲しい結果が生まれることもあります。現代の意味においての「アンブシュア」は、唇に触れる空気であり、空気が唇に触れるさまです。それならば、アンブシュアは動詞です!
アンブシュアとは動作を表す言葉です。それは、私たちが音域や音量を変える際のコンスタントな変化の中での動きであり、私たちが音楽を演奏する際、アパチュア、息の圧力、そして息の流速(1分あたりの立方リットル)はすべて絶え間なく調整が行われます。話す際の方法をも同じように分析できるでしょう。喉頭に触れる空気が動き、振動を引き起こし、そしてその後に、母音や子音を作り出す口腔と細かい舌の動きがあります。しかし、私たちが懸命にこういった分析をしても、シェークスピアの朗読を上手く出来るようにはなりません。
唇と空気の動きは、金管演奏において切っても切り離せないもので、共に働き、機能します。この働きは、ノズルの付いたホースに大変よく似ています。水圧を調整することなく、ノズルだけを調節するのはやはり意味がありません。もし私たちが、スムーズで、乱流なく、水しぶきなく、ポタポタ垂れることなく、3メートルの水のアーチを作りたいとするなら、ノズルを調節し、そして、私たちが望む3メートルのまっすぐな噴水が得られるような水圧を調整しなければなりません。もし、私たちが5メートルのアーチを作りたいと思えば、ノズルと水圧を再調整しなければなりません。金管楽器の音づくりにおいてもほとんど同じことです。ただ、こういった調整がより頻繁であり、それが絶え間なく行われます。唇の張りと空気の量の調節が、音質と音量と音域を決定します。また、どれだけ速く水がノズルに達するか、どれくらいの速さで蛇口をひねるかによって、ノズルに達するときの衝撃が変化します。それがアーティキュレーションにあたるものとなるでしょう。
考えることはたくさんあります。しかし、実際、演奏する時に、唇に息を届けるためのこれら全ての側面を意識し続けることはまず不可能です。想像してください。水がいっぱいに入ったボウルを部屋の向こう側へ、一滴もこぼさずに運ぶとします。どうすればこぼさずに歩けるでしょうか?あなたは、こうつぶやきながら歩くことも出来るかもしれません。「手首と腕を動かさないようにします。そうすれば、全然こぼさないはずです。ゆっくり歩いて、そしてもし、水が左側にこぼれそうになったと判断したら、逆につりあわせるように私はボウルを右に傾けて・・。」しかし、もしそうやれば、おそらく床にたくさん水をこぼす結果となるでしょう。ただ気をつけながら直観的に歩いてみるのです。あなたは、きっと水をこぼさずに歩けることでしょう。
それは、演奏する時と正に同じです。確実に正しい緊張で唇を締め、ブレスをとり、ちょうど正しい位置に舌を突き、きっちりと正しい量の息を使い、もし音程が外れていれば音を上げ下げし・・。こう考えてばかりいれば、おそらく多くの音ミスを起こす結果となるでしょう!それよりは、自分の耳をたよりにし、直観的に吹くのです。たいていの場合、上手く吹けるはずです!
そして再び、私たちは同じ結論に到達します。分析のし過ぎは邪魔になるだけです。聞くことが、柔軟なアンブシュアの為に必要な微調整をコントロールするためのただ唯一の方法です。
金管演奏のすべての側面において、私たちが演奏する際に使う道具(機能)を磨き上げようとする際、最終的な調整や最終的な決定をするのは、私たちの耳なのです。
2008年11月2日 東京にて
Friday, 5 October 2012
ブレス
金管や、木管、声楽の教師が多く存在するように、どうブレスするかを教える理論、哲学、方法も多く存在するものです。その理論や方法が上手くいくこともあり、そのことが、音楽の本質である自然さ、自然な流れや美しさに反することもあります。ブレスは音楽の一部であるべきですが、音楽を止めてしまい、再び音を出すために息を入れなおしているだけの奏者をよく見かけます。
私達は、すぐ物事を分析し、専門的になってしまう傾向にあります。どうやったら物事が上手く行くかということを知りたいわけです。吸う、吐くといった肺の機能を知ることは、大変興味深いものですが、その知識がいつも有利に働くかということは、疑わしいものです。どうブレスするかという事に没頭していると、音楽を作っていくことの邪魔になることがよくあるのです。ブレスは、自然であるべきで、音楽に沿っているべきであり、ブレスが必要な場所のほとんどは、音楽もブレスを必要としているのです。
48年前の1957年、私がロチェスター交響楽団の団員であった時代、楽団は、シュトラウスのオーボエコンチェルトのリハーサルを行っていました。ロバート・スプリンクル(私の学生時代の英雄の一人であり、ロチェスター交響楽団の第一オーボエ奏者であった)がソリストでした。シュトラウスのオーボエコンチェルトは、Tubaパートがないので、私は、イーストマンテアトルのホールへ行き、演奏を聴くため、客席に座りました。
長く、叙情的な始まりは大変素晴らしいものでした。豊かな強弱の変化、美しいフレーズ、完璧な音程、深い音楽性に満ちた長いシュトラウス特有のフレーズは、スプリンクル氏の循環呼吸によって全く壊されていませんでした。しかし、なぜ私は違和感を感じていたのでしょうか?私にとっての良き師の一人である人が、美しい音楽を作り上げているというのに、その人の音楽に対して、ほんの19歳の少年が、落ち着かないとは・・?私はその瞬間に感じた事をその後何年も覚えていましたが、ずいぶん後に、再びシュトラウスのオーボエコンチェルトを聞くまで、その違和感は一体何が原因だったのかということが分かりませんでした。循環呼吸と、途切れることのないフレーズというのは不自然であり、音楽自体もブレスすることを必要としていたのです。
私たちTuba奏者というのは、楽譜に休符がない場合、フレーズを続けようとするばかりに、リズムを壊してしまうということが頻繁に起こります。1968年のある日、メル・カルバートソンという、オランダのハーグ交響楽団のTuba奏者を務めていた古い生徒から電話がありました。彼は、ちょうど、パリオペラ管弦楽団の席を得たところで、急いでハーグの席を埋めようとしており、私の生徒に、適任者がいないかと尋ねてきました。私は、一人心当たりがあると言うと、演奏テープをすぐに生徒に送らせるようにと言ってきました。そして、その10日後、またメルから電話があり、彼は「たぶん信じられないと思いますが・・」と言い、電話越しに、幾つかのオーディションテープを私に聴かせ始めたのです。その曲は、マイスタージンガーの前奏曲で、オーディションお決まりのパッセージでした。メルが聞かせてくれた5人のテープ全ての演奏は、かなりリズムが崩れていました。なぜなら、奏者が二分音符と八分音符のタイの音を、八分音符の音ぎりぎりまで伸ばした後、ブレスを取り、そして次に来る3つの八分音符を吹いていたのです。当然、後の3つの音への入りが遅れていました。全体のパッセージは、八分の九拍子のようになっていたのです!幸いにして、私の生徒はそう演奏しなかったので、結果、その仕事を得ることが出来たのです。
考えてみてください。休符の無い場所で、もしあなたが、音価分を保って演奏し、ブレスを取って次の音を吹いた場合、次の音というのは、遅れるでしょう。ブレスにかかる時間は、きちんと計算されていなければならず、前の音の時間を削ってブレスを取らなければなりません。私が聴いたテープの奏者達が、もし、二分音符を吹き、3拍目でブレスを取り、そして3つの八分音符を続けていれば、八分音符への入りが遅れることはなかったでしょう。
ブレスは、音楽の一部であり、そして特に、リズムの一部として組み立てられる必要があります。みんなが癖のようにしてしまうブレスの仕方に関する質問よりも、ブレスの場所に関する質問の方がはるかに大事なのです。よく出くわす「ブレスの問題」というのは、どこでブレスをすべきかという決定をすると、単純に解決するのです。「ブレスの位置」は、音楽的な決定であり、ブレスが音楽の一部となったとき、体の呼吸機能がはるかに自然となるのは明確なことです。
気をつけなければならないブレスに関する3つの簡単なルールです。
1. 演奏中は、日々生活している時と同じで、息の動きは、休みなく続けられていなければならない。
ブレスに問題がある奏者の大多数は、ブレスを取った後、次の音を出す前に息を止めてしまうという習慣を持っているため、問題を抱えています。音楽的、また、身体機能的、その両面に対して一番良い結果を生むには、吸う時、吐く時に関わらず、空気は絶えず動いているべきなのです。
2. 低音域を演奏する時には、より多くの息を取ることを忘れない。
同じ音量で演奏する場合、オクターブ下に下がれば、もとの音よりも2倍の息が必要になります。もし、ピアノの中央のC(Tubaで言えば、ハイC)が、メゾフォルテで一分間に4リットルの息が必要だとすると、そのオクターブ下では、同じメゾフォルテで8リットル必要になります。また、そのオクターブ下(私達の下のC)では、一分間に16リットル必要となり、ペダルCでは、32リットル必要です。私達はみんな、低音域では多くの息が必要だということを頭で理解してはいますが、驚くべきことに、多くの人は、演奏中、この事を忘れてしまっています!
3. できるだけ、息の容量の、最初の66%の中で演奏しなければならない。
私たちの息の最後の三分の一というのは、最初の三分の二と比べて不安定なのです。時として、我々Tuba奏者は、最後の三分の一の部分を使わなければならない場面もありますが、できるだけそれを避ける努力をすべきです。毎回きちんと深くいっぱいの息を取ることは、最初の66%の中で演奏しようとするための最善策です。
4つ目のルールがあるなら、音楽的ブレス、もしくは、リズミカルなブレスについてであるかもしれません。どこでブレスするか、いつブレスするかという問題だけでなく、ブレスにかける時間の長さにも問題があります。テンポによって、ブレスの長さは、八分音符分や四分音符分に相当します。また、曲の出だしが四分の四拍子の一拍目から始まるとすると、その前の小節の四拍目でブレスを取れば、より美しく演奏できるでしょう。また、もし音楽が3拍目の裏から始まるとしたら、2拍目の裏からブレスを取るとリズムが定まるでしょう。
音楽というのは実際には、音が始まる前から始まっているのです。
呼吸法を知ることは、もちろん役に立ちますが、機能的な部分だけにとらわれ始めるととても危険です。きちんと計画され、音楽の一部となった時、ブレスは驚くべきほど自然に行われているのです。
2006年5月5日 日本 東京にて
私達は、すぐ物事を分析し、専門的になってしまう傾向にあります。どうやったら物事が上手く行くかということを知りたいわけです。吸う、吐くといった肺の機能を知ることは、大変興味深いものですが、その知識がいつも有利に働くかということは、疑わしいものです。どうブレスするかという事に没頭していると、音楽を作っていくことの邪魔になることがよくあるのです。ブレスは、自然であるべきで、音楽に沿っているべきであり、ブレスが必要な場所のほとんどは、音楽もブレスを必要としているのです。
48年前の1957年、私がロチェスター交響楽団の団員であった時代、楽団は、シュトラウスのオーボエコンチェルトのリハーサルを行っていました。ロバート・スプリンクル(私の学生時代の英雄の一人であり、ロチェスター交響楽団の第一オーボエ奏者であった)がソリストでした。シュトラウスのオーボエコンチェルトは、Tubaパートがないので、私は、イーストマンテアトルのホールへ行き、演奏を聴くため、客席に座りました。
長く、叙情的な始まりは大変素晴らしいものでした。豊かな強弱の変化、美しいフレーズ、完璧な音程、深い音楽性に満ちた長いシュトラウス特有のフレーズは、スプリンクル氏の循環呼吸によって全く壊されていませんでした。しかし、なぜ私は違和感を感じていたのでしょうか?私にとっての良き師の一人である人が、美しい音楽を作り上げているというのに、その人の音楽に対して、ほんの19歳の少年が、落ち着かないとは・・?私はその瞬間に感じた事をその後何年も覚えていましたが、ずいぶん後に、再びシュトラウスのオーボエコンチェルトを聞くまで、その違和感は一体何が原因だったのかということが分かりませんでした。循環呼吸と、途切れることのないフレーズというのは不自然であり、音楽自体もブレスすることを必要としていたのです。
私たちTuba奏者というのは、楽譜に休符がない場合、フレーズを続けようとするばかりに、リズムを壊してしまうということが頻繁に起こります。1968年のある日、メル・カルバートソンという、オランダのハーグ交響楽団のTuba奏者を務めていた古い生徒から電話がありました。彼は、ちょうど、パリオペラ管弦楽団の席を得たところで、急いでハーグの席を埋めようとしており、私の生徒に、適任者がいないかと尋ねてきました。私は、一人心当たりがあると言うと、演奏テープをすぐに生徒に送らせるようにと言ってきました。そして、その10日後、またメルから電話があり、彼は「たぶん信じられないと思いますが・・」と言い、電話越しに、幾つかのオーディションテープを私に聴かせ始めたのです。その曲は、マイスタージンガーの前奏曲で、オーディションお決まりのパッセージでした。メルが聞かせてくれた5人のテープ全ての演奏は、かなりリズムが崩れていました。なぜなら、奏者が二分音符と八分音符のタイの音を、八分音符の音ぎりぎりまで伸ばした後、ブレスを取り、そして次に来る3つの八分音符を吹いていたのです。当然、後の3つの音への入りが遅れていました。全体のパッセージは、八分の九拍子のようになっていたのです!幸いにして、私の生徒はそう演奏しなかったので、結果、その仕事を得ることが出来たのです。
考えてみてください。休符の無い場所で、もしあなたが、音価分を保って演奏し、ブレスを取って次の音を吹いた場合、次の音というのは、遅れるでしょう。ブレスにかかる時間は、きちんと計算されていなければならず、前の音の時間を削ってブレスを取らなければなりません。私が聴いたテープの奏者達が、もし、二分音符を吹き、3拍目でブレスを取り、そして3つの八分音符を続けていれば、八分音符への入りが遅れることはなかったでしょう。
ブレスは、音楽の一部であり、そして特に、リズムの一部として組み立てられる必要があります。みんなが癖のようにしてしまうブレスの仕方に関する質問よりも、ブレスの場所に関する質問の方がはるかに大事なのです。よく出くわす「ブレスの問題」というのは、どこでブレスをすべきかという決定をすると、単純に解決するのです。「ブレスの位置」は、音楽的な決定であり、ブレスが音楽の一部となったとき、体の呼吸機能がはるかに自然となるのは明確なことです。
気をつけなければならないブレスに関する3つの簡単なルールです。
1. 演奏中は、日々生活している時と同じで、息の動きは、休みなく続けられていなければならない。
ブレスに問題がある奏者の大多数は、ブレスを取った後、次の音を出す前に息を止めてしまうという習慣を持っているため、問題を抱えています。音楽的、また、身体機能的、その両面に対して一番良い結果を生むには、吸う時、吐く時に関わらず、空気は絶えず動いているべきなのです。
2. 低音域を演奏する時には、より多くの息を取ることを忘れない。
同じ音量で演奏する場合、オクターブ下に下がれば、もとの音よりも2倍の息が必要になります。もし、ピアノの中央のC(Tubaで言えば、ハイC)が、メゾフォルテで一分間に4リットルの息が必要だとすると、そのオクターブ下では、同じメゾフォルテで8リットル必要になります。また、そのオクターブ下(私達の下のC)では、一分間に16リットル必要となり、ペダルCでは、32リットル必要です。私達はみんな、低音域では多くの息が必要だということを頭で理解してはいますが、驚くべきことに、多くの人は、演奏中、この事を忘れてしまっています!
3. できるだけ、息の容量の、最初の66%の中で演奏しなければならない。
私たちの息の最後の三分の一というのは、最初の三分の二と比べて不安定なのです。時として、我々Tuba奏者は、最後の三分の一の部分を使わなければならない場面もありますが、できるだけそれを避ける努力をすべきです。毎回きちんと深くいっぱいの息を取ることは、最初の66%の中で演奏しようとするための最善策です。
4つ目のルールがあるなら、音楽的ブレス、もしくは、リズミカルなブレスについてであるかもしれません。どこでブレスするか、いつブレスするかという問題だけでなく、ブレスにかける時間の長さにも問題があります。テンポによって、ブレスの長さは、八分音符分や四分音符分に相当します。また、曲の出だしが四分の四拍子の一拍目から始まるとすると、その前の小節の四拍目でブレスを取れば、より美しく演奏できるでしょう。また、もし音楽が3拍目の裏から始まるとしたら、2拍目の裏からブレスを取るとリズムが定まるでしょう。
音楽というのは実際には、音が始まる前から始まっているのです。
呼吸法を知ることは、もちろん役に立ちますが、機能的な部分だけにとらわれ始めるととても危険です。きちんと計画され、音楽の一部となった時、ブレスは驚くべきほど自然に行われているのです。
2006年5月5日 日本 東京にて
Wednesday, 26 September 2012
日本の音楽教育
最近、日本の学生による吹奏楽が大変素晴らしいとインターネットでも大きな話題となっています。真間小学校や小平第六中学校の演奏、また、アメリカのシカゴで行われたミッドウエストクリニックでの武蔵野音楽大学ウインドアンサンブルの輝かしい演奏・・。日本における音楽教育は活力があり、大変良い方向に向かっているのは間違いありません。小学校、中学校、音楽大学や一般大学に関わらず、どの団体においても、生徒たちのアンサンブルは常にベストを尽くしています。
しかし、北アメリカの音楽教育は、その存在自体が脅かされています。教育費が大幅に削られたことを理由に、驚くべきほど多くの学校が、あっさりとカリキュラムから音楽を外したのです。似たような感じで、ヨーロッパにおいても、豊かな音楽の歴史を持ったイタリアのような国々がもし音楽教育を存続させたいと望めば、どんどん個人的な資金提供に頼らなければならなくなってきました。しかしながら、現在、日本は経済問題に奮闘していてさえも、音楽を国の文化の一部とするために大きく成長させ、情熱的な探求を続けているのです。それに、この探求に必要な教育費が必要だという話もさほど聞かれないように思います。
日本における音楽的発展が見えてきたことは単に幸運だったというだけではなく、これには音楽教育の成功があるのです。日本人の学生は、とても高いレベルの演奏を達成するのに必要である、意志、忍耐、および規律正しさを持ち合わせています。多くの西洋の教師たち、そしてバンドディレクターたちは、日本人の生徒たちの新しいアイディアに対する柔軟性に驚嘆しています。日本人は、新しいものに対して反発したり、肩肘張ったような態度をしないと言われています。そういった態度は新しい情報や新しい学習という未知のものを受け入れることに対する抵抗からくるものであり、日本人は皆、自国の社会的習慣の環境において、新しいものを受け入れるという経験を多くしてきているのです。日本人の学生は、学びたいと考え、そのために、まず、情報と与えられた指示を受け入れます。そして、最も重要なことには、日本人は、望むことに対しての必要な仕事をきちんとこなすのです。
確かに、インターネットで人々の感嘆を引き起こしたYouTubeの中に並ぶ見事な演奏は、並外れた回数のリハーサルの結果なのかもしれません。何よりもまず、真間小学校のバンドが暗譜で演奏していたことに注目すべきです。それだけを見ても大変な量のリハーサル時間があったことを示しています!さらに言えば、私が見たそれらバンドの演奏は、日本の吹奏楽コンクールのための演奏だったということです。これは、彼らが達したそのレベルにもっていくために、一週間に何日も、そして一年間のほとんどをリハーサルに費やしただろうことを意味するのです。
武蔵野音楽大学は、音楽大学であるため、演奏に対するリハーサルはもちろん専門的になります。しかしながら、その準備にかける時間は多く、おそらく2、3ヶ月で、少なくとも1週間に2度のリハーサルをやっていました。そしてその上、大変素晴らしい点は、世界的にも有名なバンド指揮者がいることです。その演奏は、とにかく最高のものです。
もちろん、それらの演奏をした生徒全員がプロの演奏家になるわけではありませんが、皮肉にもこのことは日本人の音楽教育システムをよりよくさせています。そういったことを十分に成し遂げてきた若いプレイヤーの多くが教師になった時、彼らのそれぞれの故郷でハイレベルな音楽指導を続けるのです。日本の音楽教育の未来はとても良い方向に向かっています。
さて、大事な質問をしたいと思います。今日の演奏を行う団体(例えば、交響楽団)は、出来るだけたくさんのコンサートをやる必要があり、なるだけ頻繁にやらなければなりません。演奏団体が生き残っていくためには、多くの客の興味を引きつけ、出来るだけ多くのお金を稼がなければならないからです。それがプロの音楽家が今日直面している現実です。しかし、出来るだけ多くのコンサートを行うために最小限のリハーサルを組むような今の世界に、膨大な時間をかけてリハーサルを重ねて演奏するような、彼ら日本人学生たちのコンサートは、この時代に適しているのでしょうか?
その答えはとても明らかで、絶対に「イエス」です!徹底的で完全な準備は、これらの日本の学生に素晴らしさを経験する機会を与えます。そして、そのような経験は、どういったリハーサルがよいものなのかを理解させることが出来、理想主義になれないようなプロの状況がある中でも、素晴らしいアンサンブルを完成させることがより容易となるのです。
日本で音楽を教える他の側面についても話す必要があります。それは、音楽の個人主義の発展、独特な音楽性です。これは日本だけに限らず、世界中のどこにおいても教育学のより扱いにくい部分です。そして実際、日本には、「出る杭は打たれる」という古いことわざがあります!おそらくこれは、円満な社会を維持するための最も素晴らしい描写であると言えます。しかし個性的な音楽家を生み出すためには、常にいい方向へ向く表現とは言えないかも知れません。 日本人のプレーヤー(特に金管楽器の奏者)は完璧を目指して努力しますが、試験、演奏会、コンクールなど、様々な条件の中で演奏するような音楽の世界では、完璧は十分ではありません。もちろん演奏には完璧も必要ですが、それだけが素晴らしさを決定するものではありません。
真の素晴らしさには音楽的才能を必要とします。音楽的才能は、ダイナミクス、リズム、アーティキュレーションの多彩な変化、ヴィブラートとそのほか、音楽を作る全ての他の側面のそれぞれの使い方により複雑に構成されたものです。それら音楽の道具がちょうどよく組み合わせられ、使えることで、いつその道具を使うかを知り、また、いつそれらを使わないでおくかを知り、どれくらい使うかを知ることが出来ます。決して平凡なものに留まらず、特別なものを目指していくような音楽への情熱を持っていることが必要です。すぐれた音楽家は、音楽的個性を見せるために、個人主義的特性を見せる勇気がなければなりません。
日本は多くの素晴らしい音楽家に恵まれています。そして、規律正しさ、忍耐、意思、やる気のある特性を持ち合わせた日本人演奏家が、国際的な音楽の舞台でさらに増えていくことは、必然なのです。
2010年8月27日 チェジュ(韓国)・沖縄にて
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