Monday, 21 January 2013

言語の影響 ~~ Languages influence on Performance


これまで私は、様々な場所に住み、また旅をし、数多くの言語に出会ってきました。そして、多くの言語を知れば知るほど「母国語が音楽演奏に大きな影響を与える」という事実は、私の中で確かなものになってきています。テンポ、アーティキュレーション、音の長さは全て頻繁に母国語の影響を受けているのです。
何年も前のことになりますが、私はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に入団したことでヨーロッパに移り住み、英語以外の言語に初めて出会いました。私は、その出会いに大変興味を持ち、その後、イタリア語、フランス語、日本語、ドイツ語、そして英語を学習し、それらの特徴を知ることで二つの事に気が付きました。まず、言語によってスピードが異なる事。そして、もう一つは、おそらく多くの人も気付いているとは思いますが、女性は男性よりも速く話すという事です!例えば、英語においては、男性が1分間に150語ほど話すのに対し、女性はだいたい175語を話します。この事実をもっと調べていくと興味深いかもしれませんし、さらに、何故なのだろうか?というところを調査するとまた面白いかもしれません。

しかし、ここでより重要な事は、母国語のスピードと、そのスピードが我々の音楽演奏に与える影響です。フランス語では、1分間におよそ350音節が話され、日本語は310、ドイツ語は250、英語は220ほどです。私は、イタリア語の数値を把握していないのですが、フランス語よりはかなり速いのは確かだと考えています。経験から推測して、おそらく380くらいの速さではないのでしょうか(特にイタリア人の女性!)。これらの言語の速度は、話すこと、演奏することにおいて、どのように音を聞き、どのように理解するかということに大きな影響を及ぼすのです。
子音もまた、言語によって大きく異なる部分で、母国語の子音もアーティキュレーションをどのように表現するかという点で演奏に大変大きな影響を及ぼしています。アーティキュレーションは、まさに音楽言語の子音なのです。世界の言語学者達は、世界中の言語の子音の数について、意見を一致させることが出来ません。なぜならば、どういうふうに区別するか、どこで線を引くかが分からないのです。例えば、子音の「T」一つでも、一つの言語と他の言語では大きな違いがあります。イタリア語のTは、舌が非常に前の方、ちょうど上の歯の先端くらいで発音され、一方、中国語は、口蓋の部分で発音されるため、舌が非常に高い位置になります。舌の位置は、同じTでも結果としてかなりの音の違いを生じさせます。(別のエッセイである「アーティキュレーション」もどうぞ読んでみてください。)


ごく最近、私はよく日本人の金管奏者たちと仕事をしていて、音楽演奏の言語に影響を与えているような興味深い事実を新たに発見し、そこに注目しています。それは、日本人の管楽器奏者は、一般的な傾向として、タンギングで演奏される音が全て短いという事実です。二分音符、十六分音符に関わらず、楽譜に印刷されたものが示している長さよりも短く演奏しているのです。先週のあるレッスン中に、テヌートがかかった四分音符のパッセージを、音と音の間に隙間(沈黙) がないように演奏するよう、私は生徒に何度も要求しました。しかし、そう言っても、音と音の間には隙間が残っていました。そこで、私は自分の名前を引き合いに出しました。「私の名前は、ボボです。「ボッボッ」ではありません。」生徒が、私の後に続いて言ってみたのですが、言葉の上であってもまだ隙間が残っていました。「もう一度言ってみてください。私の名前はボーボーです。」少し良くなり始め、そしてその後、ついにその問題は理解され、解決したのです。


日本語は、私が知っている中では最もスタッカートな(音が切れ切れの)言語だということが最近はっきりしてきました。話されている多くの部分で(特に音節が子音で始まる場合に) 、音節と音節の間に隙間があります。それが日本人の金管奏者が西洋音楽を演奏する際に時になまり(前回のコラムで述べたような)を伴う原因のひとつでもあります。私は、この問題が特別に深刻な問題だと言っている訳ではありません。ただ、この問題が指摘された時に、きちんと理解さえ出来れば簡単に修正できることなのです。


時に、なまりは魅力的なものではありますが、意味が伝わりにくいこともあります。何がより良い結果を生むのか・・。それは話し手やプレイヤーの決定次第なのです。

2007年11月7日東京にて

Thursday, 3 January 2013

一人の生徒に複数の教師 - Simultaneous Multiple Teachers

トミー・ジョンソンと私は長い間親友であり、いろんな物事に関して同じ考えを持つことはとても自然なことでした。私たち二人が同時期に教えていた生徒も多くいましたが、それは私たちにとって大変自然なことであり、お互いが同じような考えを持っていたので、問題が起こることなど全くありませんでした。ロサンジェルスで私たちが活動し、教えてきた25年間、私たちは何十人もの生徒に対して、お互いのレッスンを受けるように勧めたものでした。また同様に、ハーヴィー・フィリップスからも何度も電話があり、ロサンジェルスに訪れる生徒へのレッスン依頼を受けたことを覚えています。幸い、私たち金管の世界の大部分では、生徒が1人以上の先生と共に勉強していくことが受け入れられています。


しかしながら、いつもそんな状況でばかりではありませんでした。今日でさえ私たちは、時折、仲間の先生の警戒心や不安感のようなものに出くわすことがあります。ヨーロッパの大都市でテューバ奏者たちがコンサートをやる際などに、地方の生徒達がそのコンサートに行くのをその先生によって止められるというようなことが起こるのです。「自分の生徒にはその演奏会に行ってもらいたくない。」と、神経質な先生は言うのです。しかしながら、普通の人間なら「その演奏会には行ってはいけない!」と言われれば、ますます行って聞きたくなるもので、その生徒は落胆してしまうのです。また、時々、マスタークラスがキャンセルさせられるという事態になることもあります。それは特に、古いソビエト地区の東欧の国々で起こります。「学生にとって悪い影響があるかもしれない」という理由からです。幸いにも、このような考え方は現在ではまれであり、そういった事態は減ってきています。


もちろん、1人以上の教師に付いて勉強することに、何か特別なルールがあったわけではありませんが、私たちが考える常識のようなものがいくつかあります。


教師と生徒がレッスンの事に関して、常に誠実であることはとても大切なことです。もし、秘密にしなければならないようなことがあるのなら、何かそこに問題があることは明らかであり、そのレッスン自体に価値があるのかどうかということが疑問になってくるでしょう。